田上義也記念室
開館日時:毎週金・土・日曜 10:00〜15:00
入館料:300円
所在地:小樽市入船5丁目8-15(場所は「MAP」からご確認下さい)
連絡先:090(3468)3741 (担)事務局 東田
※ 写真撮影・映像撮影はできません。
2010年2月13日、田上義也記念室がオープンしました。



田上義也記念室では、建築家・田上義也の直筆による図面の複写(コピー)を展示しています。展示図面は、田上義也の研究をしている北海道大学大学院の角幸 博先生が、生前田上義也ご本人から譲り受けた図面の一部と、坂牛邸で所蔵されてきた坂牛邸の図面から構成されています。NPO小樽ワークスでは、これらの 図面をデジタルカメラで撮影した上で、ほぼ原寸大に印刷し、展示しています。展示は4つの部屋で行っています。
1. 子供部屋のホール(部屋名はいずれも当時の呼び名)
ホールに入り正面の煙突に掛けられているポスターは、「田上義也建築作品展覧会」のポスターです。東京・帝国ホテルの現場で建築家フランク・ロイド・ライトに師事した田上義也は、大正12年(1923)の関東大震災をきっかけとして北海道へ渡り、2年後の大正14年(1925)4月、展覧会を札幌時計台にて開催しました。田上が建築家として本格的なデビューを飾った展覧会であり、これがきっかけで、医師の関場不二彦氏が住宅の設計を依頼するなど、「建築家・田上義也」の名が徐々に知られていくようになりました。

田上義也建築作品展覧会、ポスター、1925年4月開催
この部屋は、小樽の田上作品の図面を展示しています。坂牛邸をはじめ、初期の作品である高田邸(大正13年(1924))、1920年代の田上を代表する作品の一つである坂(ばん)邸(昭和2年(1927))にはライトの影響が見られ、小樽は田上義也を語る上で欠かせない地域であることが分かります。また、坂牛邸で所蔵されてきた坂牛邸の図面をよく見ると、現状とは違う部分も幾つかあり、建物に刻まれてきた歴史と共に、田上の思考の跡を感じることができます。
2. 子供部屋
この部屋は、田上の代表的な作品の図面を展示しています。住宅が良く知られる田上ですが、その設計ジャンルは住宅にとどまらず、学校、ホテル、商店建築、 教会、博物館など幅広く、また式典会場やお墓といった、建築の設計にとどまらない活動を見せています。建物の所在地も、札幌を中心としながら、小樽、旭 川、函館、道東など北海道全域にわたります。

高田治作の家、外観透視図/1・2階平面図、1925年、小樽
3. 両親の寝室
この部屋は、多様な表現方法と、様々な種類の図面を展示しています。定規とインクを用いた、現在の建築図面とほとんど変わりのない図面から、フリーハンド で描いたスケッチに近い図面、色鉛筆を使った図面、水彩による図面まで、その表現方法は多様であることが分かります。図面の種類は、建物の平面図や立面図 だけでなく、シャンデリアやステンドグラス、椅子などのインテリアにまで及びます。子供部屋で紹介した設計ジャンルの幅広さとあわせて、バイタリティーに あふれた建築家・田上義也の姿を想像することができます。

札幌医師会館大会議室「シャンデリア」設計図、平面図/立面図
4. 2階
2階は、田上が「雪国的造形」と呼んだ意匠の住宅の、図面と模型を展示しています。雪国的造形とは、田上が師であるライトの影響から抜け出て確立した意匠 で、特に住宅で見られます。具体的な表現方法としては、南面の大きなガラス開口、1階と2階に連続する大きな屋根と柱型、があります。単に形の問題ではな く、雪と寒さに対抗すること、北方向きのデザインであることが、田上の追求した「雪国的造形」の理念にあります。
なお、田上義也記念室開設にあたり、以下の方々や団体・組織から、多大なご協力をいただきました。心より感謝申し上げます。
坂牛正志氏・坂牛家(資料提供)
角幸博先生(資料提供)
酒井広司氏(資料複写)
井内佳津恵氏(年表提供)
那須聖先生(展示家具製作)
田上茂氏(御相談)
安達治氏(建物写真撮影)
北海道職業能力開発大学校・駒木研究室(実測調査資料提供)
北海道大学建築史意匠学研究室(資料、模型、パネル提供)
㈲平形工務店(展示用改修)
(田上義也の図面は、いずれも酒井広司氏撮影)
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● 坂牛邸 一階平面図
※ 図面をクリックしていだくと拡大図面が表示されます。
● 坂牛邸 二階平面図
※ 図面をクリックしていだくと拡大図面が表示されます。
● 田上義也記念室 映像
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設計者田上義也について
1991年92歳で永眠した田上義也は、本名を吉也といった。
明治32年栃木県那須野原開拓地で生れ、青山学院中等科に
入学。下宿先は、北村透谷未亡人のもとで、そこには、
島崎藤村、秋田雨雀、荒畑寒村や有島武郎らが出入りし、
吉也が文学や評論に強い関心を示す刺激ともなった。
幼少から絵画の得意な吉也が建築に興味をもつように
なるのは、いとこの田上耕之助(早稲田大学理工科卒業生)
の影響である。
学院中等科3年の時に、夜間の早稲田工手学校に入学し、
昼は青山、夜は早稲田通いが続く。
1916年卒業後、恩師内藤多仲教授の意もあり、逓信大臣官房
経理課営繕係で建築助手として、現場での実務経験を積んで
いた。
フランク・ロイド・ライトの出会いは、1918年のジャパン
タイムス掲載広告「英語を話せる若い建築家求む-ライト」が
きっかけという。通訳としてまた日常生活を通じて、
ライトから
建築家のプロフェッションについて学ぶことができた。
また、ライトと共に来日したレーモンド夫妻は、週末になると
田上を伴って、武蔵野、湘南、鎌倉へと出かけ、民家や社寺の
空間構成や日本の美について講釈してくれた。
帝国ホテルの完成披露式が予定されていた1923年9月1日突然
大地震が襲う。1923年11月被災地東京を後に北海道行きを決心
した田上は、列車中でアイヌの父ジョン・バチェラー博士と出会
い、そのまま札幌のバチェラー宅(現在北大付属植物園に移築)
に居候する。翌年春、橋浦泰雄画伯と道北、道東、国後島まで
足をのばし、根釧原野で開拓民が貧しい粗末な住まいを本拠に、
理想に燃えて過酷な自然と戦う姿に感動し、北海道で建築活動
再開を決意する。同年秋、バチェラーに依頼されてアイヌ保護
学園(後のバチェラー学園)を設計。
これが北海道における作品第一号であるが、本格的なデビューは、
1925年4月札幌時計台で開催の「田上義也建築作品展覧会」で
ある。北海道初ともいえる建築展の反響は大きく、有料の講演会
にも聴衆が集まり、これを機に、まずは住宅建築家としてスタートした。
建築展は、この後も1928年(札幌)、1930年(札幌と旭川)に
開催し、1931年には1924〜30年までの29作品を収録した
『新芸術学叢書6 田上義也建築画集』
(日本芸術学会編、建設社)を出版している。
1926年、念願のアトリエ付き自邸を新築している。
水平性を強調したライト風の作品であった。田上の作品群は、
1920年代は住宅を中心に、水平性の強調、十字形平面の採用など、
形態やモチーフ、幾何学装飾にライトの影響が色濃く認め
られる。深い軒の寄棟屋根、横羽目目板張りの腰壁と白漆喰を
組み合わせた外観、亀甲模様や幾何学模様のサッシュ割りや
室内の幾何学的モチーフの照明器具など、いずれも田上風と
わかる特徴を有する。
1930年代には、大きく作風が変化し、住宅では、南面の
1、2階を通して立つ柱型、この柱型から北面に葺きおろす
屋根表現、南面に大きくとったガラス開口、保温性を保つ
ためのコンパクトな平面などが特徴である。30年代の変化は、
作品ジャンルの多様性にも表れ、商業建築や郊外の観光ホテル
など、時代の風潮を適切に捉えた作品が見られる。市街地内の
カフェーや喫茶店など、それまでの建築家がほとんど対象に
しなかった建築の設計にも積極的に関わり、モダンを志向する
施主にとっては、気軽に相談に乗ってくれるフットワークの
軽い、頼れる建築家であった。
彼は、雪国の過酷な自然風土に適した建築を求め、
常に「北」を意識した。自身の根幹にはライトの教えや影響が
ある事を認めつつも、当初からライトからの脱却を意識し、
自己様式の確立への過程があった。その過程には、当時の様々
な建築思潮や建築スタイルへの揺らぎも随所に認められるが、
自己様式の一つの到達点が雪国的造型であった。
数々の講演や、出版活動と共に、1932年頃からの作品活動
は道東方面にまで広がっていった。が、日中戦争、国家総動員法
を経て、太平洋戦争に勃発、建築家としてはブランク期を
むかえることになる。
この時期の彼のエネルギーは、札幌新交響楽団設立に向けられた
戦後は、1951年田上建築制作事務所として復帰、この期の田上
に力を与えたのは北海道銀行初代頭取島本融である。
この出会いから、北海道銀行支店の設計へとつながり、
1953年から10店以上の設計を手がけ、1962年~64年にかけて
山下寿郎設計事務所と共同で本店を完成させている。
また、北海道内のユニークなユースを手がけ、
1964年日本ユースホステル協会建築功労賞受賞し、
1971年には北海道ユースホステル協会長となった。
同時に、設計活動だけでなく公職も増大した。
北海道建築士審査会委員(1941)を初めとして、
北海道建築士会理事(1958)、
北海学園大学工学部教授(1969~1973)、
日本建築家協会北海道支部長(1972~1974)や
北海道建築設計事務所協会会長(1976)などの建築界関係、
北海道文化賞審査委員(1969)、
北海道国際文化協会会長(1970)、
北海道文化振興協議会委員(同)、
ライオンズクラブ国際協会ガバナー(1971)、
北海道青少年育成推進協議会会長(1972)、
札幌市民芸術賞ならびに
文化奨励賞選考委員長(1973)など、文化面でも活躍した。
建築のみならず北海道の地域文化向上に貢献した田上に対し
1963年北海道総合開発功労者知事賞、
北海道総合開発道民大会賞、
1965年北海道文化賞(芸術部門)、
1971年勳四等瑞宝賞、
1977年札幌市芸術功労賞、
1978年北海道開発功労賞、
1982年北海道新聞社会文化賞
などが贈られている。
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<上記解説文寄稿>:
北海道大学大学院工学研究科
建築史意匠学研究室
教授 角幸博氏
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